ダカ一ルの病院訪問                                            

病院の概要について:どの助産師に聞いても答えられず、助産師長が知っていると言われた。
 しかし、出張中のため聞くことができなかった。

正確な値ではないが、ある助産師によると、病院に勤務する助産師は1415名。うち、分娩室勤務は10名。
分娩件数は年間
60007000件。

病床数:分娩室8床、陣痛室5床、妊婦9床、褥婦9床。

勤務体制:2交代制 @8時〜20時 A20時〜8

〜セネガルの助産師の分娩介助をみて〜

421日、9時〜17時まで一日分娩室で助産師や分娩室で働く医師、看護師などの仕事ぶりを見学させてもらった。ちょうどその日はとてもお産が多く、経膣分娩6件と帝王切開1件を見学することができた。そこで、気付いたことや思ったことをあげてみる。

≪任地のマトロンの分娩介助とあまり変わりがない≫

 本来もっと大勢の介助を見学しなければこのように決めつけるわけにはいかないが、ここで私がたまたま見学した助産師による分娩介助は村のマトロンが行っていることとあまり変わらないのでがっかりした。頻回内診をし、まだ子宮口がそれほど開いていないうちからいきませたり、医師や看護師が産婦の上に馬乗りになって必死に子宮底を押す。そうすると、胎児は苦しいというサインを出し、胎便が羊水にまざり羊水が緑色でどろどろしたものになる。生まれてきた赤ちゃんは胎便だらけで呼吸も貧弱。急いで児の蘇生ができる部屋(Creche:託児所という意味)へ連れて行き、インファント・ウォ一マ一(保温しながら処置ができる台)で吸引・酸素投与を行う。ただ、保温はされていないしバイタルサイン(心拍数、呼吸数、体温などの全身状態)のチェックもしない。投与された酸素の量も適当であった。そんな状態で生まれてきた赤ちゃんが私がみた中でも2名。こんなこといつもされていたのではたまらない。Crecheは分娩室から少し離れている。走れば15秒といったところであるが、私が一緒に行った時しばらくそのドアが開けられなかった。ついてきた看護学生が他の入り口から入って中のスタッフを呼んだ。その間、児はほとんど息をせず逆さづりのまま待たされていた。実際2分弱だったと思うが、それ以上に長く感じた。

 幸いにもその赤ちゃんの状態は良くなった。しかし、再び分娩室に戻ってくるとすぐに水道水で洗われて冷たくなってしまった。生まれたての赤ちゃんは保温が大切なのにセネガルではほとんどそのことは考えられていないようだ。(任地でも児の体温には全く関心がなさそう)

 ここでも、出生時の赤ちゃんの状態をあまり良くみていない。生まれてきて息をしていればいいという感じで臍帯を切断した後は両足を持たれて看護学生に渡される。そして、水道水で逆さのまま洗われる。その後赤ちゃんはとっても冷たくなり、そのまま臍の処置をされてつめたい布にくるまりしばらくベットの上に置かれる。

≪ギャ一と叫ぶお産≫

 日本でも色々な産婦さんがいて、静かだったり叫んだり・・・様々である。ただ、こちらの叫び声はちょっと違う感じがする。無理矢理お腹を押されたり、突然麻酔なしで会陰切開をする。しかも、かなり深く切る。それでものすごく痛がり叫んでしまうのだ。切開した場所を縫合する時はさすがに麻酔をしてくれるが、時々それが効かないのか?かなり大声で叫ぶ。それでも麻酔を足すことはなく、医師は処置を続行する。そのため処置の間ずっとわめいている。

 また、ここでは全員に対して陣痛促進剤を使っている。入れる薬剤の量は、日本の倍。かなり強く危険だと思う。そのせいか、点滴を始めてしばらくたった産婦は子宮収縮がかなり強くなり,痛がりわめくようになる。

≪忙しいのはわかるけど・・・≫

 朝9時に私が分娩室に入った時にはすでに満床。私は当然誰がどんな人たちなのかわからない。スタッフも忙しすぎて私に説明する暇などないので、私は自分でカルテを見ていた。

 気になったのは、助産師が自分がお産介助した後でお母さんに名前を聞いていたり、医師が診察に来たときにそれぞれの産婦の状態を説明できずにいた。ほとんど把握することなくただ進行している人がいれば順にみていくという感じであった。忙しいとついついそうなりがちであるが、特に陣痛促進剤を使用しているのなら常に注意深く観察が必要だし、それぞれの人の産科歴(妊娠中の異常の有無、過去のお産の経過や異常の有無など)を考慮してリスクを予想することも大切だと思う。

≪帝王切開≫

双胎(双子)の緊急帝王切開を見学した。

手術室での清潔操作は、日本と変わらず徹底されていた。とくに大きな違いはみられなかった。ただ1つ気になるのは、でてきた赤ちゃんの吸引や酸素投与がその場でできず(設備が整っていない)わざわざ手術室を出てCrecheへ連れていかなければならないこと。児の状態が悪い場合が心配である。

≪ケアがない≫

 日本では、看護教育で「患者さんが主体・中心となれるようなケアが必要」だと教わり、医療者が患者さんのニ一ズを引出しそれに専門知識を加えてその人に合ったより良いケアを計画・実施していくということが当たり前のように行われている。

 しかし、ここでは違う。医療者は医療だけを提供すればいいと思っているような態度で患者と接している。ケアは家族がしている。セネガルだけではない。他の途上国でもこのような状態である。身の回りの世話は家族でもできる。ただ、医療の専門知識があってこそできるケアもあるだろう。それが欠けている。

 分娩進行中、腰をさする人は誰もいない。それどころか、声をあげる産婦に対して怒鳴っている。私が見ていてもとても怖い。

 現在の日本医療が患者に安全・安楽の両方を提供できるのも経済の豊かさ、医療の発達、人々の意識の向上など様々な要因が重なってのものであろう。途上国の多くは、全てを手にすることができず最優先課題についてのみを追求するだけとなる場合が多い。お産に関して言えば、日本や世界の他の国々でも「人間的なお産」を求める声が多くなった。

≪ケアの重要性≫

 「人間的なお産」とは、出産する女性は人間であり、赤ちゃんをつくるための機械でもなければ単なる容器でもないことを理解することを意味する。

WHO勧告にみる望ましい周産期ケアとその根拠より)

 産婦が主体的で満足のいくお産ができるようなサポ一トをするためには、それだけ高いアセスメント能力、技術、判断力が必要である。セネガルの地方のように医療者が少ない地域こそ、ケアの充実が求められるのではないか。機械がなくても注意深く観察し、リスクを予測したり早期発見し適切なケアがなされれば状況は少しでも改善する余地はあるのではないかと考える。

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