日記 2005年3月

3月1日(火) 新しい活動村(ガンモ村:Keur Gamou)の地図づくり

他2名の隊員と一緒にガンモ村を歩き回り、地図を作りました。セネガルは大家族で親戚や知り合いの子どもなどが一緒に住んでいるので世帯を数えるのが大変です。家の敷地内には、いくつものカ一ズ(小屋のような家)があります。私達は、垣根で囲まれた敷地内に住む人々を1世帯と数えることにしました。
この村の世帯数は29で、訪問調査のためにそれぞれに番号をふって地図に書いていきました。
村の人口は約500名です。常設の市場はなく、写真のように村の主婦が近くの村(歩いて30分くらい)へ行って購入したものを村の中心広場で売っています。

右の写真は、村で唯一の商店です。こどもたちのおやつや生活雑貨、穀物など村の生活で必要なものはだいたい揃っています。

 村には水道がありません。毎日朝と夕方になると、女性達や女の子たちは村内に2ヶ所ある井戸に集まり、水を汲んでいます。
水汲み・水運びは女性達にとってかなり負担になっているようです。



毎週火曜日になると、ロバのお店が生活雑貨などを色々乗せて村にやってきます。この店は、色々な村を移動して商売をしているようです。
村に電気はないのですが、一軒だけ車のバッテリ一(だと思うのですが・・)でテレビをみられる家がありました。テレビ番組は時々現地語(ウオロフ語)ニュ一スがありますが、ほとんどフランス語です。それでも、皆楽しそうにみています。画像を楽しんでいるのでしょうか。
外からの情報はラジオから得ているようです。ラジオでさえも、全世帯には普及しておらず、全体の65%のみです。何か、村で行事があったり知らせたいことがあると村長さんがモスケ(イスラム教寺院)で村人たちに知らせるそうです。

村人たちの主な職業は農家です。セネガルの特産物であるピ一ナツが主な生産物です。他、とうもろこし、トウジンビエ、トマト、ビサップ、いも、二エベ(豆)・・・などです。
話されている言葉は、主にウオロフ語です。ほとんどの住民がフランス語を話せません。

村の教育機関は小学校1校、アラビア語学校1校です。

少しずつ暑さが厳しくなってきたので、村をまわっているときはかなりきつかったです。村には老人はほとんどいない代わりに子どもの数はかなり多かったです。時々出会う老人は、白内障でした。ほとんどの人の年齢は不詳です。こちらで相当歳をとっているようにみえる人でも身分証明書で確認してみると50代だったりします。見た目では判断できません。
また、一人気になる女の子がいました。家の庭でうつぶせになって倒れているように見えたので見に行くと、小児麻痺のようでした。家族は特に気にしている様子もなくその子は一人でいました。母親の話では、赤ちゃんの時からこうだったと言うことです。現地語が達者ではない私にはそれ以上詳しい話が聞けませんでした。他の家をまわってみて障害のある子どもは彼女一人でした。他の村でも一人同じような子どもを見かけたことがあります。障害者に対してどのような政策があるのかわかりませんが、このようにアクセスが困難な村の中での生活は困難だと思います。恐らく、何か合併症があり加療が必要なケ一スの場合は、ここまで育たないうちに亡くなっているのだろうと思われます。このような村の中での障害児ケアはどうしていったらいいのか?今後考えていきたいと思います。

3月8日(火) アンケ一ト調査開始

7日に村長や村の医療従事者(といっても無資格産婆と医療ボランティアしかいませんが)から色々な情報をもらい、今日から全世帯対象にアンケ一ト調査を始めました。現地語のみのインタビュ一は結構大変です。各家族の年齢を聞いても、ほとんどがわからない状態でした。子どもの年齢は一応答えていましたが、なぜか間隔がみな同じだったりしてあまり信憑性がありません。

3月13日(日) とんかつ大会!
今日は1日のんびりしました。そして、近くに住む女性隊員2名をうちに招待して「とんかつ大会」をしました。イスラム教国であるセネガルでは、豚は滅多に食べられるものではありません。私は前回上京した時にダカ一ルのス一パ一で豚肉を沢山買ってきて冷凍しておきました。パン粉はフランスパンで作りました。久しぶりの豚肉はとってもおいしかったです。皆喜んでくれました。

3月14日(月)
 朝、妊婦健診に行ったら分娩台には産婦がいました。ちょうどよいので、一緒に来ていた村落隊員も見学させてもらいました。彼女にとってこれが生まれて初めてみるお産となりました。
ちょっと時間がかかっていて、産婦はかなり疲れていました。陣痛間歇時には休むように伝えると、マトロンもそのようにウオロフ語で伝えてくれました。
そして、生まれたのは男の子でした。

日中はごく普通に過ごしていましたが、夜中から急に嘔気・嘔吐が続きました。

3月15日(火)
症状は改善されず、しかも家の電話が不通となってしまい外部と連絡とれなくなってしまいました。なので、ひどくならないうちにダカ一ルへ向かいました。この辺には医者は一人いても診察をしているわけではありません。時間帯によっては、交通手段がなくなってしまいます。なので、病気の時どうしたらいいか時には判断が難しいです。ダカ一ルに到着してもまだ具合は悪かったのですが、隊員連絡所に行き休みました。

3月16(水)

一晩寝たらかなり体調は改善されました。今はダカ一ルはかなり涼しくて快適です。任地は暑く、ただいるだけで体力消耗しそうなので、2〜3日ゆっくりすることにしました。

3月21日(月)
18日に任地に戻ってきてからは特に問題なく過ごしています。
今日は朝からクロスロ一ド誌の取材でした。午前中は村の乳幼児体重測定、昨日生まれたばかりの赤ちゃんの診察、お母さんの観察などをしました。夕方にまた村へ行ってミニ講座の準備をしようとしていたら、私達が到着する頃にお産があったようでした。マトロンに呼ばれて行ってみると、分娩直後の母と子が横になっていました。赤ちゃんがおっぱいを吸いたそうにしていたので「飲ませてあげて」と言ったら、ここではお母さんが何か食べ物を口にしないとおっぱいをあげられないそうです。お産後に出されるというおかゆのような食事が運ばれてきて、お母さんはそれを食べてから授乳します。

 その後、村の集会所でちょっとした講座を開きました。
 ちょうどこれから始める妊婦登録制度についての説明をし、妊娠期の注意事項や母乳育児につ いての説明もしました。今後、家庭訪問を始めるということや、何か問題があればマトロンの家 
 に行くようにとも伝えました。そうしたら、あるお母さんが赤ちゃんとやってきて母乳があまり出な いという相談をしてきました。状態を見せてもらうと、ちょっと詰まっていた感じですがあまり問題 はなさそうです。分泌がよくなるようなアドバイスをし、1週間後にまたみせてもらうことにしまし 
 た。こうやって、時々講座を開きお母さんたちと接触をもつことで問題をかかえた人たちとコンタクトがとれてケアができます。これを村のマトロンと一緒にやっていき、私の任期が終わる頃には村の人たちだけでやっていけるようになるのが私達の目標です。

3月24日(木)
隣に住む村落隊員のお別れ会がうちのすぐ横の広場でありました。
活動の関係者や近所の人たちなど沢山集まり皆で豪華な昼食をいただきました。
大人数用の食事の用意は大変で、昼食は午後3時頃になりました。
かなりお腹が空いていた私は沢山食べ過ぎたのか、食べた後でちょっと気持ち悪くなりました。油もたっぷりだったのでそれでかもしれません。




3月27日(日) 命名式(ガパ村にて)
ピンクのおばさんは私のカウンタ一パ一トであるマトロンのファ一トゥ・ファイです。彼女がこの母の分娩介助をしました。赤ちゃんは3月20日生まれの男の子。今回から自宅出産の子全員出生時体重を測ることにしました。そして産後訪問も始めます。生後3日目までお臍の処置で通い、生後1ヶ月までの間に週1回のペ一スで家庭訪問して母児の状態をみます。
ファ一トゥは張り切ってこの新しい取り組みに協力してくれています。この赤ちゃんの出生時体重は2900gでした。


こちらの赤ちゃんは1日遅れの3月21日生まれ。この子はまだ名前がありません。命名式は通常出生日の1週間後ですが、この子は2週間後の4月4日に行う予定だそうです。その日はセネガルの独立記念日でもあります。出生時体重は1900g。この子のお母さんは18歳です。2人目の赤ちゃんですが、1人目は生後まもなく亡くなったそうです。同じように小さく生まれてきたらしいです。今日はお母さんのおっぱいの状態を診て欲しいと頼まれて訪問しました。パンパンに張ったおっぱいをこの小さな口で飲めないでいました。搾乳をしてスプ一ンで飲ませました。その後、乳房マッサ一ジをしてたまっていたおっぱいを出しました。この1週間、赤ちゃんはあまり母乳を飲めないでいた可能性があります。このままでは赤ちゃんが危険なので、これから1週間くらいはできるだけ毎日通うつもりです。母は診療所に連れていくと言っていました。NIORO県内に保育器はありません。必要な時は40km離れたカオラックという都市の州立病院に搬送するしかありませんが、救急車がないので大変です。今のところ、哺乳意欲もあり、落ち着いた状態です。でも、まだまだ安心できません。これから雨季もやってきます。この子が元気に育っていくことを願っています。がんばれ!!

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