プロフィ一ル

幼い頃から、アメリカ人と家族ぐるみの付き合いをしてきました。
今でも一番印象に残っているのは、私がまだ小学校2年生の頃、夏休みに1週間一人で横田基地に泊まりに行ったことです。父の友人宅でしたが、当時まだ私は英語が話せませんでした。カタカナで書かれた「アイムハングリ-」「テレフォン」など必要最低限の言葉だけ持って行きました。それでも、同い年の娘さんと遊んだり、喧嘩になったり・・・なんとかなるものなんですね。私はそれで度胸がついたのかも・・・。

高校2年生の夏〜1年間アメリカの公立高校に通いました。最初のホストファミリ-と合わなかったというのもあってか、かなりホ−ムシックになりました。日本では留学生が来ると色んな人たちが話し掛けようとしますが、アメリカでは留学生というだけでは皆が寄って来ません。自分から話し掛けなければ、いつまでたっても一人きりになってしまいます。最初はなかなか週末友達と出掛けることができなかったのですが、積極的に色んな人に声をかけるようになってからは友達と過ごすことが多くなり、友達からも誘われることが増えてきました。
普段、友達と過ごしているとよく「〜についてどう思う?」と聞かれました。授業でも、よく意見を求められます。日本のようにただ答えだけ言えばいいというのはほとんどありません。それに、授業では先生が誰かを指すのではなく、皆ちゃんと手を挙げます。そんな中で学んだのは、「自分」をしっかり持つことの大切さです。アメリカでは、「自分」を表現する場、受け入れてくれる器があったように感じました。日本では残念ながら、時にはそれが自慢のようにとられてしまったりマイナスに受け止める場合もあるように感じます。私自身も、「自分」が強すぎても、弱すぎてもいけないと思います。難しいですが・・・。

大学では法律を専攻しました。ゼミは比較政治です。第二外国語に選択したドイツ語にもかなりはまっていて、ドイツ語会話研究会に入りました。大学の授業の他に語学学校に通ったり、ドイツへ行って勉強したりもしました。今はフランス語圏にいるし、フランス語少しずつ好きになってきましたが、やっぱりドイツ語も好きですね。

助産師になったきっかけ
大学時代、欧米諸国や東南アジアの国々をバックパックをしょって歩き回っていました。
ゆったりとした時間を過ごしながら将来のことを考えているうちに国際協力に興味を持つようになりました。
何の資格もない私は、どうやって国際協力に関わろうか?と考えていました。ちょうどその頃に大好きだった祖母が突然に亡くなりました。その時に、看護師である母が、「看護師になったら?」と冗談かもしれないけれど私に言いました。その言葉がずっと気にかかり、その1年後に思い切って医療の道に進む決心をしました。
看護学校合格後、ひとりでカンボジアへ行って現地で活動をしている日本人医療者たちを訪ねました。その頃に偶然出会った「お産」をきっかけに助産師を目指すことにしました。

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