日記 2005年1月


大晦日〜1月1日(土) ダカ一ル隊員連絡所にて

 同期隊員の希望で、豚骨ら一めん、餃子をつくることにしました。
 この餃子、皮からちゃんと作りましたよ。かなりおいしかったです。

 

 豚骨・・・を作ろうと思ったのですが、肝心の豚骨が手に入らず
 結局鶏がらス一プとなってしまいました。チャ一シュ一も作りまし
 た。チャ一シュ一のたれを使ってラ一メンのス一プを作ったら、
 ちょっと甘めになってしまいましたが、なかなか本格的でしたよ。

NHK紅白歌合戦(2003年)のビデオをみながら夕食を食べました。そして、ゆく年くる年
になってから天ぷらそば。なんだか日本にいるような大晦日でした。

1月1日は一日のんびりと過ごしました。久しぶりに読書しました。

1月3日(月)
任地に戻ろうと乗合タクシ一乗り場に行くと・・・運転手たちが何やら話し合っていました。ラジオを熱心に聞いている人もいます。のんびりと車の中で寝ている人もいたり・・・。「スト決行」となったらしいです。何を根拠に言うのかわからないが、「10時になったら出発するさ」というセネガル人もいました。ただ、そんなことはわかりません。あきらめてもう一泊ダカ一ルに留まることにしました。 このストの影響で、先生や生徒が来られなくなったので学校も休みになったそうです。

1月7日(金)
活動村であるガパ村へ行きました。今日はNGOのスタッフが村で保健講座を開くというので見学に来たのです。
でも、いつまで経ってもやってきませんでした。とうとう来なかったのですが、待っている間に女性達がやっていることをみていました。皆でピ一ナツを炒っていました。それを明日ピ一ナツペ一ストにすると言うので、見学させてもらうことになりました。「明日、朝9時にディンギライ村で」という約束をして帰宅しました。

1月8日(土)
どうせ遅れて来るだろうと思ったのですが、ちゃんと9時までに約束の場所に到着して待っていました。案の定、なかなかやってきません。じっとひたすら待っていました。「絶対に来る」と信じて・・・。
待っていてよかった!やっと来ました。でも、時計を見たらもう11時。おばちゃんは、ごくごく普通に「さぁ、行きましょう」と言って私を連れていきました。
昨日炒ったピ一ナツは機械にかければ簡単にペ一ストになりました。あっけなかったです。
機械は3台あり、1台はとうもろこしを粉にし、もう1台はミル(トウジンビエ)を粉にしていました。
この2日間で見学させてもらったことは、マフェにかかせないピ一ナツペ一ストができるまでをご覧ください。

1月9日(日)
今日でセネガルに来てちょうど1年1ヶ月が経ちました。
日本時間の明日10日から、友達が日本の緊急医療チ一ムの一員としてインドネシアの被災地に出発すると聞いて電話しました。久しぶりに聞く友達の声。とてもなつかしかったです。話しているうちにちょっとうるうるきてしまいました。

1月12日
新隊員が赴任してきました。1年前の私を思い出します。その夜は、うちで歓迎会をしました。手伝いに来てくれた隊員と一緒に夕食の準備をしました。はりきって色々作っちゃいました。から揚げのおろしあんかけ、海苔巻(シ一チキン、かっぱ、梅)、浅漬け、やきそばなど。

1月15日(土)
ピ一スコ一(アメリカの協力隊)が活動しているク一ル・アリ・ゲイ村を訪問しました。
彼女(セネガル名シ一ラ)は私よりかなり年上。年齢はなかなか聞けずにいるのですが、子どもが4人いるそうです。もう立派に成人しています。40代か50代かな?といったところ。活動村は距離にして自宅から10キロ弱くらいですが、交通手段がないため大変です。馬車だと30〜40分。徒歩2時間だそうです。馬車はいいのですが、かなり料金が高いです。といっても、日本円にしてしまえば300円なのですが・・・。こちらの生活費で考えたら、訪問のたびに600円もかかるのはかなりの負担です。
彼女は農業が専門なのですが、村には診療所がなく医療事情がかなり悪いというので自分でなんとかして診療所を建てようと考えました。勿論、アメリカ政府やNGOなどに資金援助を求めます。
私の住む地域では、アフリケアというアメリカのNGOが、村の保健小屋を建てるプロジェクトを行っていました。そのおかげで数十箇所の村に新しい立派な診療小屋が建設されました。
しかし、せっかく建てたはいいけれどその後のフォロ一がなされておらず、結局のところほとんど機能していないことが多いです。私が見学した村では、診療小屋にとても立派な分娩台や道具があるのに自宅出産がほとんどなので全く使用していないということです。
とりあえず、このク一ル・アリ・ゲイはどんな状況なのかを見るために行ってきました。
 この村にはルレ(保健ボランティア)は4名います。主な活動は、月1回学校で保健衛生に関する啓蒙活動をし、その時に乳児体重測定を行っているそうです。また、お産があったら立会い、危険な状況だと判断したら町の診療所へ運ぶ手配をしているそうです。
話をしてみると、なかなか保健ボランティアは知識もあり、しっかり仕事をしているようでした。(実際にはどうであるかはわかりませんが・・・)
シ一ラが言うに、1週間で3人の赤ちゃんが亡くなっている。ということだったので、お産の時に臍帯はどうやって切るのかを聞いてみた。ルレの1人が、実際にやってみせてくれました。新しい剃刀を火であぶって消毒してから使い、その剃刀の使用は一回限り使い捨てとしているということです。途上国では、時に木の枝を切ってその切り口で臍帯を切り、その切り口から感染して命を落すことも珍しくないのです。この1回のインタビュ一ではなかなかわかりませんが、とにかくアクセスがあまり良くない村なので、医療機関にかかるまでに手遅れになる例が沢山あると思います。きちんと教育を受けた医療従事者もいません。雨季になると、診療所へつながっている砂道はほとんど通行できなくなり隔離されてしまうそうです。
シ一ラが進めている診療小屋建設の話ですが、少しずつ動いているようです。その村を管轄する地区のリ一ダ一の許可が得られそうです。おそらくこのまま順調に行けば実現できるでしょう。しかし、問題は彼女の任期があと少しだということです。ちょうど建つかという頃には彼女は帰国してしまいます。
私も自分の活動があるので、あまり関われないのですが自分の時間を使って時々訪ねて様子を見ることくらいはできるかなと思っています。幸い、保健ボランティアたちが意欲的です。彼らに頑張ってもらいたいです。

1月16日(日)
今日はのんびりと休む日です。ちょっと思いついて先日もらったピ一ナツペ一ストで蒸しケ一キを作ってみることにしました。意外と簡単でおいしくできました。材料費もそれほどかからないし、油や砂糖をあまり使わないという点で健康的。もうちょっと栄養面で改良すれば、栄養指導にも使えるのではないかと思いました。近所のセネガル人に試食をしてもらったら「おいしい」ということでした。これならいける!と思いました。

1月17日(月)
ダカ一ルの日本大使公邸で新年会がありました。
餅つきあり、おせちありでかなり贅沢なひと時を過ごさせていただきました。パリ・ダカラリ一に参加した日本人選手たちも招待されていて、ゆっくりとお話を聞かせてもらうことができました。ある写真家(その人も以前は選手として参加していたそうです)が、ラリ一の写真を撮りつづけていてパソコンに音楽とともに編集をしたものを見せてくれました。砂漠の中を走りぬく車、とても格好いいけれど、コ一スはかなり過酷そうでした。何度も参加されている選手たちにとっては、この大使公邸の新年会がお正月を味わえるひと時だそうです。ほっとするのもつかの間観光もせずに帰国していきました。

1月20日(木)
明日はイスラム教の大きなお祭りであるタバスキ(犠牲祭)です。
事務所で機関誌の編集作業があるので、乗合バスに乗って出発しました。そうしたら、途中で動かなくなってしまい降ろされてしまいました。別の車を探せと言ってそのままであったため、乗客たちは「運賃返せ!」と怒っていました。全額ではなかったのですが、少しは返金されたので別の車を拾おうと待っていました。同じ車に乗っていたおじさんたちは、「さっきの車はひどいなぁ。運賃を返そうとしなかった」とまだお怒りの様子・・・と思ったら、とたんに話題が変わって「あぁ、あの羊はすばらしい。特にあの黒いのはいいなぁ」とにんまり。笑顔が復活していました。
なんだかんだ言っても、今のセネガル人たちはタバスキのことで頭がいっぱいなんだなぁと
思いました。
※タバスキの時には羊を1頭さばいて食べます。タバスキが近づくと、いたるところ羊だらけ。人々はタバスキのことばかり考え、タバスキ前はほとんど仕事が手につきません。
↑タバスキ前日の羊。明日の運命は・・・

1月21日(金)
昨年のタバスキは自宅で過ごしました。隣に住む大家が羊料理を持ってきてくれてご馳走になりました。
羊の脂がしつこくてかなり気持ち悪くなりました。今年はゆっくりと隊員連絡所で過ごすことにして1日中のんびりとしました。

 ※血を見るのが苦手な方はちょっとこの部分をとばして下さい。
   これは、タバスキではありませんが近所の家で羊をさばくところです。
   タバスキ以外では、赤ちゃんが生まれた1週間後に行われる命名式の日に羊料理がふるま   われます。

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